it stuffs and even the scream which does not become voice of the everyday life
which passes away it would like to keep changing today into the sustenance which lives.−
http://d.hatena.ne.jp/Lacan2205126/20120405/1333611220
何故だろうかと最近考える。そしてだんだんと腹が立ってきている。
わが国では何となくだが『市場』『競争』『グローバル化』といった言葉の印象が悪い。
若い人のイメージとして、夜遅くまでサービス残業したり、
上司に怒鳴られて精神を病んだり、職場で村八分になったり、
満員電車でつめられたり、使い走りでドサ周りしたりすることが
『市場競争』が苛烈化した働き方だとイメージしている人が多そうだ。
顔が死んだ『シンドイ働き方』が競争社会と思っていないだろうか?
でもそれは全く逆だと自分は確信している。
このわが国の多くの人がイメージしている『競争』は、
逆に既存構造のボトルネック層が新しい新陳代謝や挑戦を拒み、
その過剰利得の皺寄せをガチで食らっている状態と認識すればいい。
国家公務員の人件費削減に採用数を抑え、
結局は上の世代の年俸はカットしない、
下請け丸投げのITゼネコン構造、などなど・・・・
そしてハッキリと分かっているのに古いやり方を変えようとしない。
明らかに売れそうも無いものをゴリ押し営業するのも含めて、
その皺寄せを『厳しい時代』『競争社会』と呼んでいるのが現状だろう。
厳しいなら彼らの過剰利得の説明をしてほしい。
いやせめて少しは雇い人でも新しいことをやらせたらどうだろか。
これでは飼い殺しだろう。
事実私の多くの東南アジアで起業している私の友人達は、
もちろん忙しそうだが、上記のような圧殺的な雰囲気ではない。
顔も死んでいない。
国際市場競争の最前線で働く彼らが生き生きとしているのを見ていると、
わが国で『グローバル化』『競争』という概念が歪な形で共有されてきたのが分かる。
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… 夢も希望もないけど、確かにこれが現実だよねぇ。
なんかほんと(´・ω・`)やるせねぇ。。。
詰み逝く日々の声にならない叫びすら今日を生きる糧に変えていきたい。−
Return 2 -Felix culpa-