it stuffs and even the scream which does not become voice of the everyday life
which passes away it would like to keep changing today into the sustenance which lives.−
falling to the end of the sky
I am rolling over the rain
feeling to the end of the mind
I am growing over the pain
と、なんとなくデリコの"life goes on"の歌詞を書いてみたり。
特に意味はないんですけどね、最近お気に入りなもんで^^;
ってか今更ですけど、blog流行ってますねー。
ほんと何を今更って自分でも思ったりなんかするんですけど
赤石の友人関係もここんとこ次々にblog始めたりなんかして
急に身の回りがblogづいてきたなぁって感じてます。
自分自身そんな昔からwebコンテンツを運用してる訳ではないけど
少なくともblogがこんなに出回る以前から
webコンテンツとしての日記を運用してる身としては
ここ1年くらいのblog熱を見てるとなんだか不思議な気もします。
まぁweblogの本来の意味とか定義とか語っても意味ないことだし
自分自身もwebで調べた程度のことしか話せないわけで
そんなものは知りたい人が自分自身で調べればいいわけで。
それにblogもweb日記も
他人に対する情報発信の手段と考えれば
そこには殆ど差もなくなってくるような気もします。
結局blogがここまでHITした理由ってのも
タグを知らなくても更新ができるっていう手軽さとか、
トラックバック機能による繋がりの持ちやすさとかなのかな。
非難するわけではないけどweb日記の方が馴染み深い自分としては
なんだかちょっぴり淋しくなったりもするわけで(苦笑。
そんな自分はtDiaryにわざわざタグを打ち込んで
テキストのレイアウトをいじったりする様なアフォですがw
他人に対する情報発信の手段ということを考えると
この類のコンテンツはなかなか面白いと思います。
blogがこんなに普及する前はweb日記が主流だったのですが
そもそも個人の記録であるところの日記を
わざわざ他人に見せることを前提としたテキストコンテンツとして
web日記にして公開するところからして面白いと思います。
本来ならば殆どの人が、他人に公開しない筈の日記を
他人、web上の不特定多数の人に、
読まれる事を前提として書いているわけですから。
その矛盾こそが作り手側に日常に対する今までとは異なった観点を
そして読み手側にはありふれた日常の中の面白さを疑似体験する喜びを
それぞれ与えてくれるものなのかもしれないですね。
webという空間に存在する不特定多数の誰かに、
読んでもらえないかもしれないという不安と、
読んで欲しいというという願いをこめて、
当てのない返事を待ちながら日常を面白く綴る。
web日記を書くということはそういうことなのかもしれません。
宛先のない手紙を瓶につめて海に流す姿に似ているような気がするのです。
僕らはこのwebという広い電子の海に
"何処か"にいる"誰か"に向けて書いた手紙を
パケットという名の小瓶につめて流して
届く当てのない返事を待ちながら、
日々を面白おかしく見つめながら過ごしている
そんな気がしてならないのです。
ハロー、ハロー、ハロー
僕の声が聞こえますか?
僕の手紙は誰かに届いていますか?
曰さん、今日は今秋初のニーソを見たよ。
九州はそろそろニーソの季節ですよ。
ハロー、ハロー、ハロー
僕の声が聞こえますか?
僕の手紙はあなたに届いていますか?
詰み逝く日々の声にならない叫びすら今日を生きる糧に変えていきたい。−
Return 2 -Felix culpa-